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2012年1月

949 閑静な甲東園

 今津線沿線は阪神地方の高級住宅街宝塚市を通りますから、甲東園も閑静で高級な感じの住宅街が拡がっています。
 関西の大手私鉄阪急は関東の東急とよく比較されますが、いずれの鉄道会社も都市部から郊外に伸びる路線を持っていて、その沿線の宅地開発に古くから取り組んでいました。昭和といっても戦前には長閑な田園地帯だった場所に鉄道を敷設し、集客力を高めるためにせっせと宅地開発に励んできました。
 その結果、現在では両私鉄の沿線は、関西圏、首都圏のそれぞれで押しも押されもしない高級な住宅街を形成しています。
 甲東園も高級な住宅街ですが、西宮周辺には阪急が開発した宅地の他に高級住宅街の意味を持つ街が7カ所あるといわれています。
 西宮七園といわれていて、甲東園、甲陽園、甲子園、甲風園、昭和園、苦楽園、香櫨園です。

”麗しく品位溢れる立ち姿に

  シネマで逢ひしヒロインを追ふ”

 このブログでも何度か触れてきたように、新しく造成された宅地に○○台や○○ケ丘と付けられるケースが多くなっています。
 そうした中で、古くから関西では高級住宅街の多い西宮、そこの住宅街には「園」が付されていたとのことです。
 このうち「甲」のつく地名が4カ所ありますが、甲子園球場が誕生した干支に因む甲子園を除く3つ「甲東園」、「甲陽園」、「甲風園」は西宮市にある甲山に因んでいます。
 市民の憩いの場にもなっている山だそうですが、その東部に位置しているということで「甲東園」と命名されています。
 なお、甲山の最寄り駅は阪急甲陽線の甲陽園駅になります。

 さて、次回は門戸厄神・・・御利益は・・・

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948 仁川を走る乙女

 昨年12月の有馬記念を最後に名馬と謳われた「ブエナビスタ」が引退しました。
 女傑といわれたその勇姿に多くのファンが魅了されてきましたが、5歳の歳末の有馬記念では人気を集めつつも後塵を拝する結果になり残念に感じた人も多数いらっしゃったと思います。
 競走馬のデビューは2歳ですが、ブエナビスタは早くから頭角を現し、2歳最初のG1「阪神ジュブナイルフィリーズ」を制して、その後は瞬く間にスター街道をばく進していきました。
 人間に男女があるように競走馬にも牡馬と牝馬の違いがあります。一般に三冠馬というと「皐月賞」、「日本優駿(ダービー)」、「菊花賞」ですが、牝馬に限っていうと、これが「桜花賞」、「優駿牝馬(オークス)」、「エリザベス女王杯」になります。
 ブエナビスタはエリザベス女王杯こそ逃したものの残りの二つは制しています。特に桜花賞は明け3歳のみが出走できる1度限りのレースですから、それを制した印象は大きかったものと思われます。
 桜花賞が行われる阪神競馬場は仁川駅が最寄りです。

”愛されしマルーンは尚変わらねど

      そのデザインも懐かしいまま”

 コアなファンを持つ私鉄、関東では京急で関西では阪急が代表格ではないでしょうか。
 両社共に共通しているのは車体の塗色です。京急の鮮烈な赤に阪急は落ち着いた深いワインカラーというか栗色のマルーンです。俗に阪急マルーンといわれていて、その色に魅了されているファンは多いと思います。単行電車の頃から現在の新鋭車に至るまで一貫してその塗色が使われています。
 どの形式にもよく似合っていて、全体がマルーン一色のものも秀逸ですが、アクセントに白色が施してある京都線の6300形も品位を感じるスタイリングです。
 一度、じっくり阪急電車を間近で見たいと思っていましたが、関西旅行の折、神戸線、今津線、京都線と各種の形式を見るにつけ、筆者もその虜になってしまいました。
 京急は一部の車両で真っ赤な車体からステンレスに移行していますが、阪急は今後の新造車もマルーンで統一していってもらいたいところです。

 さて、次は甲東園・・・静かに立つ・・・

Rimg0118_2 初期の阪急電車(宝塚ホテルのお菓子のオブジェ)

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947 小林の落ち着く温かさ

 前回の奇妙な予告がありましたが、「小林」は「おばやし」で「こ」ではありません。
 宝塚市小林という場所に所在しているので、地名がそのまま駅名になったことが推察されますが、なぜ「お」なのか地名の由来までは調べきれませんでした。
 字面だけ見ると「小林」は阪急の創始者の姓ですから、その出生に深く関わりがあるのかと関東に住んでいる身では、そのようにも考えてしまいますが、もとより読みが異なっているのでそれも違っているような気がします。
 漢字には音読みと訓読みの二通りがあって、訓読みは日本独自の読み方ですが、音読みにしても複数の読み方をする場合もありますから複雑です。
 同じ字を書きながら全く違う姓という方も多くいらして、小林さんも大多数は「こばやしさん」であっても中には「おばやしさん」がいらっしゃると思います。

”日だまりのホームゆっくり歩みゆく

         和装の婦人粋を集めて”

 今津線沿線は、高級住宅街の宝塚市を通っていますから、どの駅周辺も高級な住宅街をイメージしてしまいがちですが、小林は少し庶民的な雰囲気があるようです。
 小説の中でも親しみやすいほっこりとした温かさが伝わる描写がありましたが、通っただけの筆者は降りてみればよかったと少し後悔しています。
 最近は成人式や冠婚葬祭を除くと和装の女性を見る機会が少なくなりました。筆者が子供の頃にはもう少し頻繁に和服姿がみられたものですが、保管や手入れそして着付けに手間がかかったり、何よりも高価なことが徒となって普及はしていないようです。
 現在でも普段着の和装というのはあるのでしょうか。そういえば筆者の祖母は普段でも和服を着ていたことを思い出しました。
 小林辺りの住宅街はちょっと高級でちょっと庶民的ですから、もしかしたら日常的に和服を着ているご婦人がスーパーに現れてるのかもしれません。

 さて、次回は仁川・・・マルーンが好き・・・

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946 逆流するか逆瀬川

 イメージだけでものをいうのもどうかと思いますが、「逆瀬川」という字面からの印象は、筆者の場合「逆流」です。
 中国では大河「長江」の大逆流が有名ですが、河川の下流部などでは日常的にあるのかもしれません・・・地学を含めて理系に疎い筆者には全く想像のつかないところですが・・・
 それで「逆瀬川」ですが、駅名は近隣を流れる河川の名称をそのまま付けています。逆瀬川は武庫川の支流で流れの速い河川ということまでは調べたのですが、そこに逆流のエピソードがあったことまでは分からずじまいです。
 ただ、「瀬」というのは流れの速い河川を表しますから、逆流はともかくとして、流れが速いことだけは言い表していると思います。
 「瀬」・・・「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川の 分れても末に逢わんとぞ思ふ」とは崇徳院の名歌ですが、これも速い流れを詠んでいます。

”水に慣れ水に親しむ人多く

     水より出でて生きる証か”

 人間はその60パーセントが水分といわれています。水分が不足し脱水症状に陥るとその生命を維持することができません。
 人間に限らず、多くの生物に水分が必要とされていますが、生命の起源と関係しているとの話を遠い昔に習ったような記憶もあります。
 そうしたことが本能として人間に備わっているのでしょうか、海や河川など人は水辺に憩いを感じることが多いような気がします。
 水は生命の維持の他、作物の生育にも不可欠ですから、古代より水辺に多くの人が住んできました。特段、農業に携わることのない現代の人も水辺の宅地に多く集まるように思います。
 できれば淀んだ河川よりも清流を好みますから、少し流れの速い逆瀬川周辺も人気の住宅地になっているようです。

 さて、次は小林・・・「こ」じゃないよ・・・

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945 老舗ホテル前の宝塚南口

 前回の記事で宝塚大劇場を背景にした阪急電車の写真を載せましたが、その場所で電車は鉄橋を渡ります。その下を流れているのが武庫川で、下流に行くと少し淀んだ印象はあるものの宝塚の辺りではまだ清流の感じがします。
 その武庫川を渡って直ぐに宝塚南口駅に入ります。宝塚駅を正面玄関とすると、宝塚南口駅はまさに南側に位置していて、閑静な住宅街に面しています。
 この一駅は比較的近い距離にあって、武庫川の橋を渡りながら手塚治虫博物館などを見学しつつブラブラと宝塚駅まで散策できるコースにもなっています。
 筆者が訪れた当時は、超高層マンションの建設途中で、更なる宅地開発が進みそうな気配がありましたが、関西に住むのであれば、宝塚も憧れの場所のひとつとなりました。関東でいうところの東急や小田急線沿線に相当するのでしょうか、宝塚南口駅周辺には少し高級なスーパーマーケットもあったりして、セレブの空気を感じました。

”中庭に降り立つ影は男装の

        麗人ゆらり幻の舞”

 宝塚駅南口駅前に建っているのが阪急の宝塚ホテルです。ここは歴史の古いホテルで、創業は大正15年になります。
 筆者もせっかく「阪急電車」の足跡を辿ったところですから、そのエピソードにも登場した宝塚ホテルに少し奮発して宿泊しました。
 新鋭のホテルのような快適な装備が整っているわけではありませんが、丁寧に手入れが行き届いたロビーも室内も歴史の重みが感じられました。
 ロビーには、宝塚歌劇団のポスターなどが随所に見受けられ、ファンには堪らない聖地であるとの印象も持ちましたが、他にも菓子で作られた往年の阪急電車のオブジェもあり、鉄道ファンの心も擽る演出が見られました。
 レストランで食事をしている折、その日の公演を振り返るファンの女性があちこちにいて熱い語らいが留まることなく繰り広げられている印象がありました。

 さて、次回は逆瀬川・・・逆流?・・・

Rimg0119 駅に面した宝塚ホテル正面入口

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944 歌声高らか宝塚

 今回から関西私鉄の雄、阪急の今津線を宝塚から西宮北口まで進んでいきます。
 阪急は京阪神の動脈として古くからJR線と鎬を削ってきた路線で、中心は神戸線や京都線になりますが、敢えて今津線を選ぶ理由は筆者がミーハーであることに他なりません。
 昨年公開された映画「阪急電車」の舞台であったのが今津線で、筆者はその足跡を辿っていくことになります。
 鉄道ファンは映画や小説に鉄道に関する文字などが入っている作品を放っておけないところがあります。「阪急電車」はタイトルがそのまま会社線名ですから即食いついた形になりますが、何はともあれ、用もなしに全線を1往復してみました。
 映画は小説を原作としていますので、まず大阪までの道すがらその小説から読み進めていきましたが、一駅毎のエピソードを連作として纏めていてとても面白い作品でした。

”キラキラと朝陽水面に煌めきて

    舞台見据える眼もまたしかり”

 「すみれの花 咲く頃」高らかな歌声は宝塚の代名詞ともいえる歌です。
 宝塚歌劇団は現在も多くのファンを持つ芸術性の高い日本を代表する歌劇団で、その創始者は阪急電鉄の創業者と同じ小林一三です。
 在籍中はもとより退団後も女優として活躍されているスターの方はたくさんいらっしゃって筆者も何人かの女優さんのファンでもあります。
 阪急はコアな鉄道ファンが多くいて、全国的に根強いマニアも多くいますが、宝塚もそれに負けないくらい熱狂的なファンを抱えています。
 朝の大劇場前には劇場入りするお気に入りの団員を待ち構えるファンが平日でも多く待ち構えています。
 筆者はたまたまその前を通りかかりましたが、短髪で颯爽と歩いているのは団員さんでしょうか、何となくオーラを発しているような感じがしたものです。

 さて、次は宝塚南口・・・老舗ホテルの中庭・・・

Rimg0122_2宝塚大劇場をバックに走る阪急今津線

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943 スノーラピッドで行く直江津

 東京から北陸に向かうルートは飛行機を除くと、速いのは米原経由か長岡経由でした。そこに新たなルートとして直江津経由が登場したことは上越新幹線の越後湯沢の記事で触れていますが、このほくほく線経由が鉄道を使用した場合の現在の最短ルートになっています。
 近い将来、北陸新幹線が全通した場合、このほくほく線回りのルートも翳りを見せてしまい、路線の存続自体が心配されるところですが、新幹線を除くとローカル線では異例の160キロでの高速運転が可能な路線ですから、貨物輸送などで活路を見いだせるようになればいいのではないかと考えたりします。
 筆者は一度、直江津からの帰り道にほくほく線回りの「はくたか」を利用しましたが、何もない(失礼!)雪原を高速で走る様に少し興奮したことを覚えています。

”北陸の間近に見える海を背に

      山に分け入る脱兎の如く”

 かつて、長野新幹線が開通する以前、新津回りの他に信越線経由の特急「白山」が上野と金沢の間を走っていました。
 時刻表を見ると「直江津・金沢間は逆編成」と明記されていたことを覚えています。「逆編成」とは列車の方向が前後逆になることで、上野から来た「白山」は直江津まで1号車が最後尾でしたが、直江津から金沢に向かう際には1号車が先頭になるということで、直江津駅の配線上そのような運転形態になっていました。
 子供心には地図を見る限り新津経由より直江津経由の方が近いように思っていましたが、途中に碓氷峠を控えていることもあって長岡経由の方が速かったようです・・・新幹線の利用もあったので・・・
 雪原を走る「はくたか」はJRは青と白の塗装の681系でほくほく線が臙脂と白の塗装の同型ですが、筆者はほくほく線の車両が好きです。雪原を疾走する赤いラインはさながら脱兎のようです。
 
 さて、次回からは阪急今津線を宝塚から・・・ミーハーだ・・・

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942 西国立で間違える

 位置関係というのは時として人を混乱させるのかもしれません。
 地元の人にとっては何ということのないことでも、思い込みというのは恐ろしいもので地名を言われてもピンと来ないことが間々あります。
 西国立も筆者にとってはそうした場所のひとつです。筆者の場合、鉄道ファンを自認していながら圧倒的に方向感覚がつかめない第1位は渋谷で、第2位が新宿ですが、そのローカルバージョンとして西国立はかなり上位に食い込んできます。
 何がどう混乱するのかというと、中央線に国立駅があることから始まり、更に青梅線に西立川があることが拍車をかけます。
 地図上で見れば一目瞭然で、国立の西部にあるから西国立であることは紛れもない事実ですが、立川の繁華街を抜けきらない場所に駅があることから立川市内と勘違いしてしまい、つい「西立川」と思ってしまうところです。
 西国立の近辺は立川市役所があったところで国や東京都の出先機関も多くある官庁街ですから余計に混乱したのかもしれません。

”カクカクと改札抜けて行く人の

        多かりき街官庁街は”

 同じサラリーマンでも公務員と民間のサラリーマンでは匂いというか挙措が違っているように思います。
 表向きでは少し遊びがあって融通が利くのが民間で、杓子定規であるのが公務員に思われがちですが、実際は逆なのではないでしょうか。
 法律や規則でガチガチに縛られているように見えてその実その制度に守られて結構融通が利いているのが公務員で、反対に経費の円単位までシビアに精査されてしまう厳しさの中で勝負しているのが民間のような感じもします。
 人生の中で中々両方を体験するというのは珍しいことなのかもしれませんが、「経験者は語る」で、社内(役所内)を見渡すとそういう人も案外いたりするもので、そうした人に違いを聞くのも面白いかもしれません。

 さて、立川駅は中央線で詠んでいるので南武線も今回で終点です。
 次回は小休止で信越本線の直江津・・・スノーラピッド走る・・・

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941 矢川って何処にある

 「光陰矢のごとし」といいます。
 現代では矢に勝る高速の武器や乗り物がありますから、「矢」が速いものの比喩表現に使われることはないと思いますが、故事が産まれた時代にあっては馬よりも速くものを射止めていた「矢」が速いものの代名詞になったのでしょうか。
 そうしたくだらない考察はともかくとして、月日の経つのは本当に速いもので正に「光陰矢のごとし」です。特に年を重ねれば重ねるほどに1年が短く感じられます。10代の10年間と40代のそれとでは年齢と同様に4倍から5倍の感覚の違いがあります。
 筆者も20代に比べると30代が、30代に比べると40代が遙かに短く感じられ、全く持って1年が20代の頃の2~3か月くらいに感じてしまいます。
 この先もっともっと1年が速く感じられるようになっていくのでしょうか。

”「着いちゃった」続きはメールするからと

               制服ひらり翻し行く”

 矢川の由来は近くを流れる小川の流れの速さからきているとのことです。
 唱歌「春の小川」では「春の小川はさらさらいくよ・・・」とその流れる様が形容されていますが、決して急流ではないにしても狭い小川ではその流れが急流ほどに速く感じられることにもなるのでしょう。
 時間にしても河川にしても、その年代や川幅によって流れの速度の感じ方は変わってきます。
 大河では悠久の流れを感じ、峡谷では急激な流れを見ることになります。思えば年齢と逆のようにも思えます。河川の上流を若い世代とするのであればもっとゆっくりと流れる筈であり、下流に行けば急流になろうというものですが、できれば歳を重ねても悠久の流れのように人生の後半をゆっくり楽しみたいものです。

 さて、次回は西国立・・・間違えちゃった・・・

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940 掛け声じゃないよ谷保

 「あなたと呼べば あなたと応える 山のこだまの嬉しさよ・・・」昭和の懐メロ「二人は若い」の冒頭です。
 山深い場所を訪れた際に大きな声を出すと周辺の樹木や崖に反響して自らの声が返ってくることがあります。
 この現象を「木霊」又は「山彦」といいますが、「木霊」についてはその昔その現象は樹木の精霊の成せる業と考えられていたことに由来し、「山彦」については山の神の成せる業と考えられていたことに由来しています。
 現代では科学的にこの現象を検証することができますが、遠い昔にあっては山深く人里離れたところで自ら発した声がどこからともなく返ってきたとなれば神の成せる業としての怪異現象に他ならなかったところだと思います。

”遠い日に焦げ茶の電機この道を

        石灰積みて誇らしく行き”

 南武線は多摩川の砂利や奥多摩の石灰石を東海道まで運ぶ目的もありました。現在でも貨物列車は走っていますが、全盛期に比べると少ないのではないでしょうか。
 現在の電気機関車はEH500型やEF210型に見られるように洗練されたボディや塗装になっていますが、かつての電気機関車といえば茶色が主流でした。現在でも一部のEF64型などで復元塗装のように茶色が使われていますが、昔はどの形式もその茶色一色でした。
 ボディも前後両端のデッキが特徴的でオールドファンにとっては垂涎の名機かもしれません。名機といわれたFE58型も初期は両端にデッキがあり、その直前の機種のEF57もしかりです。
 EF57型もEF58も大型の機関車ですが、筆者が好きな機種は少し小ぶりなEF15型です。中央線などで活躍していたようですが、もしかすると南武線でも石灰列車を引いていたかもしれません。
 さて、奇しくも「こだま」も「やまびこ」も現在は新幹線の列車名ですが、それは別にして山に行ったらとりあえず「ヤッホー」が定番ですか・・・

 さて、次は矢川・・・春の小川・・・

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939 西府のPC

 パーソナルコンピュータの進化には目覚ましいものがあって、最近の機種に至っては筆者にはついていけないところもあります。その反面、操作性は向上していて子供からお年寄りまで誰でも手軽に扱える製品が増えてきています。
 パソコン単体ではそれほど市場拡大には至らなかったと思いますが、ネットの普及がパソコン市場の拡大に一役買ったことは間違いないと思います。
 一方で基本ソフトの発展も操作性の向上に繋がっていて、ウィンドウズの進化により多くのソフトが気軽に扱えるようになったことはいうまでもありません。
 現在では一家に一台を通り越して1人1台になり、タッチパネル式を含めた場合には1人2~3台という時代に差し掛かっているのかもしれません。

”降り立つは一人一台PCを

    持つ世の中を作りし人か”

 筆者が初めてパソコンを購入したのは、25~6年前のことになりますが、そのころ日本のパソコン市場を席巻していたのがNEC製でした。
 PC98シリーズとPC88シリーズがあって、後に98シリーズに統一されてしまいましたが、筆者はその98シリーズを購入しました。
 当時はネットがそれほど普及していませんでしたから、専らワープロと表計算とゲームに使うのみでしたが、頻繁にフロッピーディスクを入れ替える必要があったり、メモリの許容量を気にしつつ作業をする必要があったことを今でも覚えています。
 筆者も知人に教わりつつメモリを増設し、思い切って100メガバイトの外付けハードディスク購入したりしましたが、その当時100メガバイトのハードディスクは10万円もしたものです。
 南武線の中で平成に誕生した一番新しい駅「西府(にしふ)」は、日本電気(NEC)府中事業所の最寄り駅です。

 さて、次回は谷保・・・掛け声かと・・・

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938 分倍河原って面白いな

 「ぶばいがわら」と読みます。多少難読駅の部類に入るかもしれません。
 面白い読み方の駅なので、初めて目にしたときから筆者は直ぐに記憶に止めることができました。
 太平記によれば、その昔北条氏率いる鎌倉幕府軍と新田義貞率いる倒幕軍との間で激しい戦が行われた場所とされています。
 その当時から分倍河原の地名はあったようですが、「河原」は多摩川に由来するとしても「分倍」の方はこれといった記述がありません。
 それでも表記として「分梅」であったともされていて、近隣には梅林があったことも偲ばれるところです。
 「梅」が「倍」とはそこに繋がりを見いだすことは中々難しいものがありそうですが、「倍」の字にもそれなりに意味はあったのでしょうか。

”交差する私鉄急行ドア閉じて

        間一髪で逃す悔しさ”

 前回の記事で、仕事の関係で一度南多摩駅に降りたことに触れましたが、当時千葉に住んでいた筆者、南多摩までのルートは、総武緩行線で新宿まで行きそこから京王帝都に乗り継ぎ分倍河原で再び南武線に乗り換えることとしました。
 帰りも同じルートで帰ったところでしたが、南武線からの接続が悪く、というよりも慣れぬ駅でもたついていたために急行を1本逃してしまいました。
 鉄道ファンとしては乗り換えでもたつくなど恥ずかしい限りですが、言い訳をすると、初めての駅はちょっと物珍しくあちらこちら観察していたために乗り遅れたといったところでしょうか。
 乗り換えにもたつく理由として、分倍河原は京王帝都が南武線の上に交差する形の接続駅ですが、交差地点が南武線の立川寄りに偏っているために、南武線の乗車位置によっては乗り換えに時間を要するところがあります。

 さて、次は西府・・・1人1台の時代・・・

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937 付かず離れず南多摩

 南多摩は府中街道が川崎街道と分岐する辺りにある駅です。
 府中街道は、川崎から多摩川沿いに南武線につかず離れずで通っている幹線道路です。道路と鉄道の関係は浅からぬものがあり、これまでにも幾つかの記事で触れてきましたが、東海道と東海道線や中山道と高崎線のように旧街道に沿って幹線の鉄道が敷かれている例が多くあります。
 奥多摩からの物資輸送も担っていた南武線です。鉄道開通以前には荷馬車が府中街道を行き来して物資を輸送していたことが推察されます。したがって鉄道敷設に際しては必然的に街道筋に沿うことになったのではないでしょうか。

”丘陵に蝉の鳴く声姦しく

   いつ終はるとも知らぬ残暑に”

 筆者は一度仕事の関係で南多摩駅の改札口で待ち合わせたことがありました。既に20年近く前の話になりますが、券売機が1台か2台程度の小さい駅舎が川崎街道に近い場所に建っていた記憶があります。
 前回の記事で触れましたが、この辺り、太平洋戦争中は旧軍の弾薬庫がありました。戦後になってその施設は丸ごと進駐軍に接収されてそのまま弾薬庫として使用されていましたが、現在も米軍の管理は変わらず、レクリエーション施設として使用されています。
 米軍の施設もそうですが、この辺りはレクリエーション施設に適した環境が整っていて自然を取り入れた施設が他にもあります。といっても主体はゴルフ場ですが、多摩丘陵の緩やかな起伏はそうした施設にはピッタリのようです。

 さて、次は分倍河原・・・面白い名前・・・

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936 中途半端な終点稲城長沼

 稲城長沼駅は、稲城市の長沼地区(東長沼)に所在している駅で、稲城市の「城」は「ぎ」と濁ります。
 南武線の中の核駅としては放射状に延びる他社線との接続駅が注目されていますが、稲城長沼駅は接続駅ではないものの運転上の拠点駅になっていて、ホームも島式が2面あります。駅に隣接して留置線もあることから、稲城長沼止まりや始発の電車も運転されています。
 接続駅でもなくこれといって目立つところのない駅が運転上の拠点となっているのは、旧軍時代に近くに弾薬庫があったことから輸送用の貨物列車の引き込み線があって、その名残が留置線や少し広めの構内として利用されているということもあるのでしょうか。

”文庫本拡げてゆったり折り返し

        川崎行は少し眠たげ”

 このブログでも何度か触れていますが、筆者は電車の方向幕が好きです。特に好きなのは滅多に出ないレアな行き先ですが、臨時電車などを除いて日々走っているダイヤでも、運転本数の少ないものにはゾクッとくるものがあります。
 それに加えてもう一つ、文字数の多い方向幕も好きです。首都圏のJR線や大手私鉄の行き先は何故か2文字の行き先が多いように思います。「東京」、「上野」、「新宿」、「池袋」、「渋谷」、「品川」、「横浜」、「浅草」、「千葉」、「大宮」とターミナル駅も2文字が大勢を占めています。南武線にしても「川崎」と「立川」です。
 そうした中で運転本数が少なく文字数も多い「稲城長沼」や「武蔵中原」の方向幕には俄然気分が高揚してきます。
 吾妻線の「万座・鹿沢口」やみなとみらい線の「元町・中華街」のように5文字以上の方向幕にも興味を引かれますが、やはり4文字程度がバランスがいいような気がします。

 さて、次は南多摩・・・寄り添って・・・

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935 矢野口は何処の入口?

 「○○口」と付く地名や駅名は何処か最寄りの場所の入口である場合が多くあります。初めて南武線に乗って矢野口駅を通ったときには、ここも「矢野」という場所への入口かと思ったものでした。
 このブログを書くに際して、郷土史などで調べてみると、「矢野」への入口ではなく太平記にも記されている「矢口の渡し」に由来するとのことでした。それほど詳しく調べてみたわけではありませんが、新田義貞が幕府軍と一戦交えた戦跡がこの辺りにはあちらこちらにありますから、それに由来するのは頷けるところです。
 ただ、ちょっと謎に感じるのは、矢口の渡しはもっともっと多摩川の下流の蒲田に近い辺りですから場所が少し離れているところです。
 そうした経緯も突っ込んで調べてみれば解明できるとは思うのですが、中々無精な性格のために中途半端で終わっています。

”五分でも君と居たくて一駅を

   乗り過ごしてる下校の電車”

 かつては貨物輸送が盛んだった南武線も沿線の宅地開発と共に旅客需要が増大し、現在では押しも押されもしない通勤・通学路線に変わってきていて、朝夕は相当に混雑して6両編成の電車がアップアップして走っています。
 それでも昼下がりにはゆとりがあって静かでのんびりとした雰囲気が車内に漂っています。
 夕方の通勤ラッシュより少し前の時間帯に訪れるのが下校のピークです。最近の高校生はだいぶスタイリッシュになりました。ちょっと着崩した感のある制服を纏った男女がたくさん電車に乗ってきます。
 そうした中にはカップルもいて下車駅では中々分かれがたい感じが窺えます。もしかすると毎日どちらかが下車駅をずらして一緒にいる時間を少しでも長く共有しているのでしょうか。微笑ましい光景です。

 さて、明日は稲城長沼・・・四字熟語に弱い・・・

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934 河、島、そして稲田堤

 向河原に宿河原そして中野島とこれまで川に纏わる駅を詠んできました。
 南武線は多摩川に沿って走る路線ですから、沿線の地名はその流域に因むものが多くなっています。河川に大小の石の転がる「河原」と中州を表す「島」、そして今度は「堤」です。
 堤とは堤防そのもののことで、河川の水面より高い位置まで土を築いて水が溢れないように措置する土木工事です。
 現代では堤防というのが一般的ですが、山国である日本では河川が多く、古くからその流域では水害に悩まされてきたところですから、治水工事の一環として築堤事業は盛んに行われてきたようです。
 都市部の堤防はコンクリートで固められたものが主流ですが、郊外に出ると緩やかな傾斜に草生す堤があって、段ボールで傾斜を滑る子供の姿も見受けられます。
 堤防というとコンクリートで、堤というと土といったイメージを抱きます。

”人の世と同じ行く末水の中

     新しきモノ我が物顔に”

 「ゆく川の流れは絶えずして・・・」とは鴨長明の方丈記の冒頭で、日本の三大随筆の一つに数えられています。
 前半では動乱の世の中や天変地異の様子を描いており、その無常観を絶妙に表現しているのが冒頭の「ゆく川の・・・」です。
 川の水は常に流れていても風景を見ている限りその流れを意識することはありません。思えば日々の生活も同様で、俗に「判で押したような生活」を送っていても、擦れ違う人や電車に乗り合わせる人は必ずしも同じではありません。
 毎年、毎年季節毎に服装の流行が変わったり、若い世代の流行語は報道されるときには死語になっていたりします。ほんの10年くらいの間に時間の流れが速まったように錯覚することもしばしばあります。
 昨日の流行は明日になれば時代遅れのような速いサイクル、少しゆっくりした生活も推称されてはいるものの、ついつい流行を追いかける愚かな自分も確かに存在しています。

 さて、次は矢野口・・・何の入口?・・・

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933 中野島は採石地

 中野島、「島」が付くくらいですから、多摩川の中の大きな中州か何かに由来している駅名と推察できますが、地図を見るとこの辺りの多摩川には大きな中州が幾つか散見されますからそれらの一つかもしれません。あるいは、川筋が変化する前の現在は陸地になっている部分がその場所に相当するということもあるのでしょうか。
 多摩川に沿っている南武線ですが、その途中にはかつて河原の砂利を採取していた場所が幾つかあって、そうした砂利の運搬を担っていた時期があったようです。
 現在は廃止されていますが、中野島駅付近にもそうした採取場が存在し引き込み線もあったとのことです。
 南武線を利用すれば、当時工業化が急速に進んでいた京浜工業地帯などでの需用も高かったことが想像できますから蒸気機関車に引かれた石積みの貨車が多数行き来していたことが偲ばれるところです。

”老人の問わず語りは在りし日の

        河原の石に栄えし街を”

 その昔、採取場の引き込み線が存在していた頃には単なる無蓋車だったのでしょうか。現在では石類を運ぶ貨車はホッパ車と呼ばれていて、石の他に穀物などの輸送にも使われています。
 多摩川の砂利の他に南武線には奥多摩地区で産出される石灰石を運ぶ使命がありました。現在はその任務も終わっているようですが、ホキという貨車に石灰石を積んだ貨物列車が南武線を行き来していたとのことです。
 ホキは、下部が萎んだ形状で上から積んだものを下の口を開けて取り出す(放出)ことができる構造になっている便利な車両で、無蓋車に平積みするのに比べると効率的に積み下ろすことができます。
 筆者もNゲージでホキを持っていますが、これを走らせるときには長い編成にすると壮観です。

 さて、次は稲田堤・・・今度は堤・・・

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932 立ち食い蕎麦が気になる登戸

 登戸は小田急線に続いて2首目になります。
 南武線は府中本町で武蔵野線と接続していますが、貨物線が武蔵野線からそのまま東海道まで繋がっているように、両線がそのまま直通で運転をすると首都圏に大きく円を描く環状線になります。
 武蔵野線の特徴として何度か触れたとおり、環状線は都心から放射状に延びるJR線や私鉄各線と所々で接続しています。
 そうしたことから南武線も武蔵野線と同様に都心へ繋がる動脈路線と幾つか接続していますが、後発の武蔵野線と異なり歴史のある路線ですから、接続する駅は、武蔵小杉、武蔵溝ノ口、登戸と地域の拠点都市が多くなっています。
 登戸駅は、南武線も小田急線も一旦駅舎の外に出て乗り換えるため、少し距離を感じますが、小田急線の方は急行停車駅ですから、一日中利用客が多く行き来しています。

”細長い鰻の寝床川崎は

   海に栄えて川に栄えて”

 南武線と小田急線の乗り換えの通路の途上に立ち食いの蕎麦店があって、何度か乗り換えたことのある筆者はいつも気になっていました。
 取り立てて食事時ではないにしても、立ち食い蕎麦店というものは何となく入ってみたくなる佇まいを感じてしまいます。京成高砂のホームにある(あった?)店のように出汁の匂いに誘われるというところまではいってはいませんが、店の入口を見るにつけ、何となく天麩羅蕎麦の食感が脳裏にちらつきます。 最近はあまり利用しなくなっていますが、今度登戸で乗り換える際には、是非立ち寄ってみたいと思っています。
 南武線は、多摩川にそって上っていく路線ですが、同時に川崎市の深部にも入り込んでいく路線になっています。川崎といえば臨海部の工業地帯のイメージがありますが、内陸部は意外に深く入り組んでいて、多摩丘陵も市の一角になっています。

 さて、次は中野島・・・ホキが走る・・・

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931 小石ころころ宿河原

 日本の国歌「君が代」には今なお賛否がありますが、国歌であることを前提として綴っていきます。
 「君が代は千代に八千代に細石の巌となりて苔の蒸すまで」と簡潔な歌詞で短い歌ですが、この歌の斉唱の時に立つか立たないかはこの際無視していきます。
 何年もの時を経て、例えば小さな石でも大きな岩になってそこに苔が蒸していく様を謳うことで永年の国家の繁栄を謳っていますから、それほどに何を拒むのか筆者には理解しがたいところで、オリンピックのてっぺんの表彰台に登った選手が、日の丸の掲揚と国歌斉唱を聞いて涙を流すのも頷けるところです。
 水の流れ自体はそれほどの力はないように思えますが、視点を100年単位に置き換えてみると、石の形をも変えてしまうほどの力を持っています。
 河川敷の石は下流に行くにしたがって小さく丸みを帯びてきますが、これこそが流れの力によるものにほかなりません。
 そうした石もまた、人の手で採取され積み重ねることによって人の生業を支えることに結びついていきます。

”寄り道の流れの後に道有りて

     緩きカーブを自転車で行く”

 河川の流れは100年単位で見ると石の形状以外に、地形をも変えていきます。向河原の記事でも触れていますが、近代のように治水を科学的に分析して対策を施す以前には大水などの度に洪水に曝され河川敷自体が変化しています。
 宿河原駅付近の地形も大きく変化してきた川の形状を周辺の道路などで窺い知ることができます。
 今でも鈎上に曲がりくねった道路は、従来の川の流れに沿っているといわれています。大きく河川敷を確保して、台風などの洪水時に備える現代の治水事業に対して、あまりにも稚拙な従来の治水対策では仕方のなかったことかもしれません。
 それでも、そうした河川の形状の変遷が現代の街を作り上げ、そこに独特な街を象っていて、それが現代の街の魅力に繋がっているとも思えます。
 懐古主義ではありませんが、そうした古の流れを辿る散策をいつかしたいと思っています。

 さて、明日は登戸・・・立ち食い蕎麦が食べたい・・・

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930 八時、久地、十時

 久地です。
 音だけ聞くとナイントゥファイブの始業時間のように9時に聞こえます。世の中の多くの事務職がナイントゥファイブで働いていますが、始業時間は揺るぎないものの就業時間となると勤勉な日本人は如何に遅くまで仕事をしていたかで競っているような節があります。
 効率的に仕事をしていても、上司や同僚が残っていると何となく帰りづらさを感じてしまうのかもしれませんが、それこそ非生産的で職場には余計な光熱費がかかるし、個人的にはストレスも溜まって決していいこととは言えないような気がします。 
 このところ節電が叫ばれていますから、余分な残業は避けられる傾向にあるようなので、できれば定時に退社したいところです。

”豊かなる多摩の恵みを集めきて

         同心円に水を分けゆく”

 閑話休題。
 水が必要な生物は人間に限ることなくほとんどの動植物に当てはまります。稲作や畑作にも欠かせない水の確保は古来から多くの作地で課題になっていました。
 多摩川は水を摂取するのに都合のいい河川ですが、均等に周辺の農地に水を配分するとなるとかなり計画的な配水が必要になっていたようです。
 幾つかの取水口があって、久地駅近くの二ケ領用水など幾つか存在しましたが、こうした取水口から各地に均等に水を配分する施設が昭和初期に設置されていました。
 久地円筒分水というその施設は、コンクリートの円筒形の施設で、円の形を活かして周辺の農地に均等に水を配分する優れた構造になっていたようです。
 詳細な構造は筆者の理解しがたいところにありますが、その当時の技術としては相当に進んでいたものであったらしく、現在はその功績に対し国の有形文化財に指定されています。
 駅は地味ですが、そうした水の遺構を訪ねる旅も趣があるかもしれません。

 さて、次回は宿河原・・・多摩川に沿って・・・

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929 子供の頃に間違えた津田山

 子供というのは変なことを気にしたり覚えているもので、そうした記憶の幾つかは大人になっても忘れることはないようです。
 小さい頃、子供向けのテレビドラマを見ていた筆者は、主人公の少年が引っ越した友人を訪ねるシーンを見ていましたが、その少年が降り立った駅が南武線の津田山駅でした。その当時は南武線の駅という認識はなかったのですが、背景に出てきた当時の津田山駅の駅舎は印象に残っています。駅舎に掲げられた津田山の文字に注意を引かれたことが一因かもしれません。
 子供の頃に千葉に住んでいた筆者はJR総武線をよく利用していましたが、馴染みのある津田沼駅と似ている名前だったことで強く記憶に残ったようです。仮名表記でも漢字表記でも一字違いのその駅に何となく親近感を覚えたといったところでしょうか。

”手を繋ぎ黄昏の街急ぎつつ

   口ずさむのは夕焼け小焼け”

 最近は子供が外遊びをしなくなったといわれていますが、筆者の住む街の大きなマンションの公園では陽が沈むまでサッカーやキックボードに興じる子供達の歓声が響いています。
 何がそんなに面白いのか大声で笑いながらボールを蹴る男の子に買ったもらったばかりの自転車に怖々跨がる女の子など、寒い季節でもお構いなしに遊びに夢中になっています。
 夕暮れが迫りひとり、ふたりと帰って行く光景は時代を経ても変わることはありません。マンションになったことで夕餉の支度の匂いが外に漏れることはありませんが、それでもお腹を空かせれば自然に子供達は帰っていきます。
 昔のように手を繋いで「夕焼け小焼け」を謳うようなシーンはなくなっているようですが・・・

 さて、次回は久地・・・オヤジギャグ再び・・・

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928 クロッシング武蔵溝ノ口

 武蔵溝ノ口は前回の記事で触れたとおり、JR線の溝口駅(播但線)と差別化するために武蔵が付された駅です。
 渋谷と中央林間を結ぶ東急の動脈田園都市線との接続駅で、田園都市線は急行停車駅になっています。
 南武線は都心から放射状に延びる路線に対して交差しながら北上する路線ですから、武蔵溝ノ口の他に東急東横線と武蔵小杉で、登戸で小田急線にも接続しています。そうした接続駅は南武線の中でも利用客が特に多くなっています。特に武蔵溝ノ口は付近を国道246号線が通り、高津区役所もある川崎市の内陸部の拠点ですからかなり賑やかな街です。
 ちょっとしたターミナルのような佇まいの駅ですから、東急バスと川崎市営のバス路線が多く乗り入れていています。
 東急田園都市線の方は接続駅でも「武蔵」は付さずに「溝の口」になっていて、「の」もひらがな表記になっています。

”繁栄は江戸と隔てる川伝ひ

      人集ふ街陽射しは強く”

 中央線の四ッ谷の記事でも触れていますが、駅名と住居表示の表記が異なっている例が幾つか見受けられます。四ッ谷の「ツ」が住居表示にはないことや御茶ノ水の「ノ」がひらがなの「の」と表記されている例です。
 溝ノ口の場合もそうした例の一つで、JRの「溝ノ口」に対して東急の「溝の口」とそれぞれ「ノ」と「の」が挟まれていますが、住居表示はいずれの「の」も含まれない「溝口」です。こうしたことからバス停留所は「溝口駅」になっていたりして少し複雑な感じもします。
 住居表示が「溝口」であることからも播但線の「溝口」との差別化が必要だったのでしょうか。
 多摩川沿いに古くから繁栄してきたこの街に住まう人にとっては住所と最寄り駅とを伝えたり書いたりするときに混乱することはないのでしょうか。

 さて、次は津田山・・・間違えた・・・

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927 武蔵新城は新城駅

 武蔵小杉から武蔵溝ノ口までの4駅、南武線は武蔵を被せた駅が続きます。小杉、中原、新城、溝ノ口ですが、それぞれ旧国名の武蔵を被せている意味はあるのでしょうか。
 このブログでも私鉄の場合で社名を被せている駅名について、その由来に触れてきた記事が幾つかありました。多くの場合は競合するJR線の同じ駅名との差別化を図るための措置とされていましたが、競合していなくともJR(旧国鉄)の何処かに同じ名の駅がある場合には社名を被せている例がありました。
 JR線同士でも同じ駅名の場合には、片方に旧国名を付けるなどの措置を図っていたようで、そうした例がいくつか見受けられます。
 南武線のこの4駅もJR線の同名の駅との差別化を図るために旧国名の武蔵が付されていたようです。

”これでもか武蔵続きの駅の名は

        私鉄の名残今に留める”

 現在ではほぼその存在が姿を消している各駅の出札口、かつては旅客切符の発行や手荷物の受付をしていました。
 行き先を乗客から聞いてそれに対応する切符を発行するのですが、同じ駅名があると混乱します。特に手荷物や貨物の取り扱いでは誤配の原因ともなることから差別化は必要でした。
 南武線の全身は南武鉄道という私鉄ですが、開業時から国鉄とん乗り入れ運転をしていたため、同じ駅名行きの貨物の手配に混乱を来さないように、既に存在していた小杉、中原(なかばる)、溝口(みぞぐち)と差別化を図るために私鉄の南武鉄道が旧国名の武蔵を被せたということです。
 新城は同じ字ではありませんが同音の新庄がありますから、武蔵と付けたのでしょうか。駅名としては武蔵が被せられていますが、バスの行き先や地元では新城駅と呼ばれています。

 さて、明日は武蔵溝ノ口・・・渋谷へGO・・・

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926 眼下に電車が休んでいる武蔵中原

 武蔵小杉は横須賀線で詠んでいますから、ひとつ飛ばして武蔵中原です。
 車窓に車両基地を眺めるのが筆者は好きです。多くの車両基地は駅間にあって、朝夕は留置されている車両は少なく、反対に日中は多く止まっています。
 中でも様々な形式が走っている路線の車両基地は見ていて飽くことがありません。筆者の好きな風景は京急の神奈川新町とJR横浜線の東神奈川です。この二つの車両基地については京浜東北線の東神奈川の記事などでも触れていますが、隣接して設置されていることから京浜東北線の車窓から双方の車両を眺めることができます。
 JRの方は横浜線の205系がほとんどですが、京急の方は1500形や800形に作業用の黄色い車両などバラエティに富んでいて車両基地ファンを楽しませてくれます。

”高架からゆっくり降りる六両の

       勤めを終えて一息の朝”

 多くの車両基地は地上と同じ高さにあって、その傍らを走る本線も地上線を走っているところがほとんどですが、最近の都市部では鉄道の高架化も進んでいるので、中には高架の本線から地上の車両基地を見下ろす車窓も見受けられます。
 南武線は全線を通して地上区間の多い路線ですが、武蔵中原付近では高架になっています。そしてこの武蔵中原に車両基地があります。
 朝のラッシュ時を過ぎた頃、武蔵中原止まりや回送などでこの駅に集まってきた電車が次々に勾配を下って車両基地に帰っていきます。
 立川に向かって左側の車窓から車両基地を見下ろす形になりますが、壮観に並んだ電車の屋根を見るのも滅多にない風景でそれはそれで興味をそそられます。
 高架化が進んでいくと首都圏の随所でこうした光景が今後も増えていくのでしょうか。

 さて、次は武蔵新城・・・武蔵が付く駅・・・

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925 川筋クネクネ向河原

 東京都と神奈川県の県境が多摩川です。万葉集にも詠まれているとおり古くからの大河川で流域の人の生業を潤してきました。
 紆余曲折という言葉がありますが、人生のジグザグな浮き沈みの如く河川の蛇行も歴史と共に大きな変化があって流域の人々は翻弄されてきていたようです。
 多摩川を挟んで東京都と神奈川県には同じ地名が幾つかありますが、それらはかつて同じ場所に陸続きになっていた証かもしれません。
 川が嵐の度に、また、浸食を繰り返して流れを変える度にその川幅や河川敷が変わっていきました。
 その名残が現在の多摩川の形ということになるのでしょうか、そうはいいつつも現在の多摩川も少しずつその流域が変わっているのかもしれません。

”気まぐれに流れを変へる大河在り

      寄り添ふように人は住みつつ”

 南武線は川崎を発った後一旦多摩川とは反対方向の横浜方に進みますが、その後大きく弓なりに右に曲がって「こ」の字を描くように多摩川に向かい、そして多摩川に寄り添うように北上していきます。
 元々は貨物路線で、多摩川流域の貨物を京浜工業地帯に輸送する路線でしたから、川崎への乗り入れはおまけだったのかもしれません。今では支線になっている八丁畷から浜川崎に向かい鶴見線を経て工業地帯の深部に乗り入れる路線こそが南武線の主流だと思われます。
 現在の南武線は沿線に大企業の事業所が散見され、人口も急激に増えていますから旅客路線として幹線並みの輸送量を誇っています。

 さて、明日は武蔵中原・・・一休み・・・

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924 ただの平間は温和しく

 川崎市バスが運行開始から60周年だそうです。戦後の混乱期から現代まで市民の足としてJRや私鉄の市内各駅と住宅団地や工業地帯を結んできています。
 幾つかの営業所がありますが、その中の一つに上平間営業所があります。川崎駅と武蔵小杉駅の中間辺りで、道路では第2京浜国道から府中街道を北に少し上った辺りに位置していて小さな商店や住宅が密集していて古くからの賑わいを感じます。
 その上平間に向かう途中に下平間があって、こちらも府中街道沿いということから街道を中心に住宅が多く建ち並んでいて、古くから栄えていたようです。
 地元の史実を紐解くと、同じ平間でも上と下では属していた郡(こおり)が異なっていたようです。
 そして少し多摩川や府中街道から内陸に入ったところに上も下も付かないただの平間が静かな佇まいで控えています。

”テストでね百点取ったご褒美に

   欲しかったシャツ買ってもらふの”

 川崎の平間といって最初に思い浮かぶのは川崎大師です。関東の名刹ともいうべき川崎大師は金剛山金乗院平間(へいげん)寺といいますから、平間とは浅からぬ縁があるように推察します。
 幾つかの史実を調べてみたところ、川崎大師の本尊となる弘法大師像を夢のお告げに従って海中から引き上げた人の名が平間(ひらま)だったことから平間寺と名付けられたとのことですが、この平間氏の出身が平間の郷であったということで、やはり何らかの関係はあったようです。
 現在の平間駅は2面2線の相対式のこぢんまりした可愛らしい駅です。
 武蔵小杉近隣に私立の小学校でもあるのでしょうか、昼下がりの電車はパッと明るくなったように賑やかな光景が見られます。
 学期末、成績の上がった子供達は付き添いのお母さんに何かをねだっているようです。

 さて、次回は向河原・・・流れは気ままに・・・

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923 素知らぬ顔の鹿島田

 「ここから先は大人の事情でお見せできません。」といったフレーズが最近のテレビ番組でしばしば耳にします。
 スポンサーとの契約関係でライバル社の製品が映っていたり、肖像権の侵害に当たりそうな場合に使われているようですが、一昔前まではそこまで厳密に運用されていなかった記憶がありますから、それだけ世知辛い世の中になったということでしょうか。
 あまりにも度を超したモザイクには大人げなさを感じるところもありますが、アメリカに近づきつつある社会の構造からすると無益な訴訟を避けるためには仕方ないところなのかもしれません。
 同じ会社の路線が近接して走り、駅も近くに設置されていながら別名を名乗っている例は全国でも珍しいと思いますが、南武線の鹿島田と横須賀線の新川崎はそうした位置関係にあります。
 後発の新川崎を鹿島田と繋げるには少し距離があって、私有地を抜けるために連絡通路の用地買収が難しかったことは推察できますが、徒歩5分の距離であれば乗り換えの扱いをしてもよかったのではないかと考えたりしてしまいます。

”暮れ方の新川崎へ向かふ道

     赤き暖簾は関所となりて”

 鹿島田から新川崎に向かう5分の間もそうですが、新川崎とは反対側に延びる鹿島田の商店街には幾つか一杯飲み屋があります。
 特に帰宅時の夕方、乗り換えの間の赤提灯は相当の魅力をもって誘いかけてきます。夏の暑い盛りにはキンキンに冷えた生ビールに冬の木枯らしには熱燗の徳利と、季節毎に誘惑の杯はあの手この手で迫ってきます。
 駅周辺は近代的な開発が進み幾つかの大手企業の事業所と高層住宅が建ち並び、駅も改装されて橋上駅舎になっているので、一見すると近代的な街のイメージですが、商店街自体は昔ながらの街並みが充分に残っています。
 昔から続く赤提灯には新興の住民達が常連となって根を張っているのでしょうか。街や駅の名の由来になった鹿島神社は、そうした街の変遷をずっと見ていたのでしょう。

 さて、次は平間・・・上下は賑やか・・・

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922 矢向でお昼寝209系

 旧国鉄時代の在来線の駅の配線には特徴的なところがありました。旅客輸送と共に貨物輸送も盛んに行われていて、個人の手荷物取り扱いなどもあり貨物自体が身近な存在でもありました。今では聞かれなくなった「チッキ」なども子供の頃に聞いた記憶として懐かしく思い出されます。
 貨物輸送もあった関係もあって、一般的な地方路線の駅の配線は2面3線になっていて中線は優等列車の待避や貨物の留置に使われていた駅も多くありました。
 現在も少し郊外に出ればそうした配線の駅に巡り会うこともありますが、首都圏内ではほとんど見かけなくなりました。
 そんな貴重な配線の駅が矢向駅です。配線のみならずホームや駅舎もほとんど手つかずで往年の国鉄時代を感じ取ることができる希有な存在になっています。

”草生して陽炎の立つ転轍機

    ゴトゴト越へて回送ゆるり”

 矢向駅は立川方面のホームから数段の階段を下りたところに小さな改札口と猫の額ほどのロータリーを備える駅です。
 駅前には踏切を挟んで矢向商店街が連なっていて、街も含めて丸ごと昭和の文化遺産のような佇まいです。
 構内には複数の電車を留め置く留置線もあって、ラッシュアワー以外の時間帯には幾つかの編成がそこで足を休めています。
 旧態依然とした感じの転轍機と草生した留置線には、最近の209系よりも少し前まで走っていた103系や101系が似合うように思います。

 さて、明日は鹿島田・・・大人の事情・・・

Rimg0001 趣きあるホームと留置中の205系

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921 2両編成が可愛い尻手

 川崎を始発とする南武線の本線と浜川崎から来る南武支線とが合流する駅が尻手(しって)です。多少読みづらい部類に入るかもしれません。
 南武支線は尻手から浜川崎に向かう路線ですが、本来の目的は貨物輸送に主体が置かれていて、尻手駅には南武支線のホームとは別に新川崎の貨物操車場に向かう線路が敷かれています。
 オマケのような南武支線の電車は2両編成のワンマンカーで朝夕のラッシュ時はともかくとして、日中は運転本数がかなり少なくなっています。
 南武線に乗っていると接続のアナウンスが流れますが、時間によってはかなりの待ち合わせの時間を要するときもあって、それでも尻手駅では時間を潰す場所もないので、ただ所在なげに携帯でもイジっているほかはないかもしれません。

”ワンマンの支線の電車遠慮がち

      貨物列車の合間を縫ひて”

 尻手駅は第2京浜こと国道1号線を跨ぐように置かれています。天下の国道1号線ですが、東京から横浜までの主体は第1京浜と呼ばれる国道15号線に譲っています。第1京浜の方が旧道に沿っているので仕方ないとは思いますが、なぜ、旧道に沿う方が国道15号で内陸側の路線が国道1号になったのでしょうか。
 正月の箱根駅伝も国道15号の終点で国道1号と合流するまでは国道15号の第1京浜を走ります。
 筆者はどちらかというと第2京浜に近い場所に住んでいますが、タクシーに乗るときには、しつこいくらいに「第2」、「第2」と言わないととんでもない方向に連れて行かれてしまいます。2度念を押しても第1京浜の川崎周辺に行ってしまったこともありましたが、東京のタクシーの場合「ちょっとわからなくて~」で済まされてしまった苦い経験もあります。

 さて、次は矢向・・・草生す留置線・・・

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920 寄生してるよ八丁畷

 八丁畷は京急に次いで2首目になります。
 京急も京急川崎と京急鶴見の狭間で各駅停車のみが停車する小駅ですが、南武支線のJR線はもっと小さな駅の印象があります。
 元々JR南武支線の主体は貨物路線ですから、旅客自体の運転本数はそれほど多くはありません。貨物列車の合間を縫ってちんまりと運行している印象があります。
 京急の八丁畷駅は2面2線の対面式ホームですが、双方のホームに改札口があってその手前の道路に踏切がありますから、京急の利用者は方向別の改札口を利用することになります。
 したがってホームの跨線橋を京急の利用者が使うことはない構造になっていて、その跨線橋こそが南武線1面1線のホームになっています。
 跨線橋を上っていくと簡易式のSuicaタッチ機があってちょっとしたローカル駅の趣です。

”乗換の駅は間借りの跨線橋

      工場に急ぐ人を拾いて”

 朝の京急の踏切は開かずの踏切で、それこそ跨線橋を利用して渡りたくなります。駅前は昔ながらの昭和の面影を湛えるような佇まいで、臨海部から来ると踏切の手前で大きく直角に曲がり京急の線路沿いに道路が延びています。
 商店街もそれなりにあって、ファーストフード店は朝からフル回転の雰囲気があります。
誰も彼もが足早に行き交う朝の風景ですが、線路が地上にあると何となく目線が低くなって親しみが沸いてきます。
 そして高架を行く南武支線の電車がまたローカルの風情を漂わせています。それでも京浜工業地帯に働く人々を運ぶ使命を担っていますから、朝はどことなく忙しない感じもしています。

 さて、次回は尻手・・・本線と合流・・・

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919 三度の大師へ川崎新町から

 あけましておめでとうございます。
 何とか3度目の新年を迎えることができました。
 さて、昨年、一昨年に続き今年も川崎市内の駅から新年をスタートさせます。2年前は京急川崎、そして昨年は同じく京急の川崎大師駅でした。そして今年は同じく川崎市内から多摩川添いを上っていく南武線を支線の川崎新町から詠み進めていきます。川崎は東海道線で、支線の浜川崎は鶴見線で詠んでいるので川崎新町になります。
 川崎の新年は大師様の賑わいで始まるといっても過言ではありません。特に東海道線を挟んで海沿いの川崎区は大きく賑わいます。
 その川崎区の一角に川崎新町駅はちんまりと置かれています。支線の駅で単線での運行ですから都会の一隅にあってもどこかローカル色を感じるところです。

”平凡な人の暮らしの風景は

     こんな感じの街だと思ふ”

 ローカル色を感じるということは取り立てて平凡であって、目新しいものが何もないことを指しているようにも思います。古いものも失わない代わりにこれといって新しいものののない生活感の溢れた街こそがその街の素顔であって、そうした風景に出会うと何となくホッとするものを感じます。
 臨海部に大規模な工業地帯を控える街ですから、そこに働く人々の生活を支える街がそこには確実にあって、工業地帯の長い歴史とともに着実に生業が根付いていったものと思われます。
 また、旧東海道もすぐ近くを通っていますから、工業地帯以前に既に賑わいっていた一角かもしれません。

 さて、次は八丁畷・・・寄宿している・・・

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